地の景 〜地図を破り捨てて〜

秋晴れ。
空気は乾いており、光は澄みわたって、幾らか色づいた木の葉や枯れかかった草草や真っ青で抜けるような空は最大限にそのカラーを見せつけているように思われるが、じつはそれらは死期を迎えたものたちの最後のカラ元気ではないかという感もどこかあり、かえってそれが一層色に深みをもたらしている。

リアルはいつも隠れているような気がしてならない。

右や左ではなく、あくまでリアルからの乖離が問題だと思うのだ。

ルールが大手を振って歩いているような気がしてならない。

安全神話とはなんだったのか、どう克服するつもりなのか。

私は心臓破りの上り坂、自転車を漕ぐ、立って漕ぐ、息を切らして、やっとのこと上り切る、息をつく、顔を上げる、太陽が目に入る、ギラリ、その輪郭が網膜に焼き付く、ルール以前のルール、”おてんとさま”を見たのであった。

ある日の会話 〜男がいない〜

チャット。

文字による会話。

見ず知らずの人同士がチャットで自由に語り合う、そんなサイトがいくつかある。私はただの興味本位、野次馬根性で始めたのだが不覚にもハマってしまった。
当然ながら何処の馬の骨ともわからぬ連中が集まるわけで、会話すら成立しないということはしょっちゅうだ。しかしそこでやめてはいけない。次々と相手を変える、淡々と。怒ったり諦めたりするのは不毛である。下ネタにも意味不明のシャウトにもキモい画像にも負けてはならない。そうやって何度も何度も相手を変えていくとごく稀にだが話せる相手と出会うことがある。考えてみればリアルでも同様だ。リアルでは見た目による判断が可能なため話すことは滅多にないが。

相手は22歳の女性だった。
私はくだらない冗談ばかりを浴びせかけ彼女との文字による会話を楽しんでいた。とはいえそれもずっとは続かない。
少し真面目な話。
記憶を頼りにほんの一部再現しよう。

女 彼氏はおらん。けどこれからもずっとこのままのような気がする
俺 男なんていくらでもいるだろ?ちょうど世の中の半分くらいな
女 そういうことじゃ・・orz
俺 ?
女 男がおらんのです

と、ここで通信が切れた。彼女が切ったからである。リアルとは違ってチャットにはこれがある。突然の切断。不快になれば切ればよい、そうやって理想の相手をみつける(しかしそれではせっかくの偶然が台無しのような気もする)。
私はなにか悪いことを言ってしまったのかなと思った、そして出した初めの結論は彼女には恋愛対象となるような男性が身近にいない、ということだった。それに対する私の無理解に腹を立てたのだと。
しかしそれでもなにか気にかかることがあった。すっきりしない。彼女は”好きな”男性がいないとは言わなかったからだ。その箇所に引っかかったのである。つまり

世の中に男がいなくなった

と言いたかったのではなかったか。
それは妙に私の心を捉えた。
そこで再びチャットを始めて相手が女性であることを確認し、いままでの経緯を説明し男がいないって本当かどうかを聞いて回った。相手から見れば私は何を目的としているのか見当がつかず困惑し、気持ち悪がられたし酷く誤解もされた。それでもしつこく食い下がった。
結論を言えば、大賛成ってわけではないが理解出来るということだった。データ数少なすぎるけど。
自己実現という言葉やそれに類するスローガンじみたものは氾濫しているものの結局それらは軽薄なビジネスに回収され、自己決定しようものなら直ちに干されてしまう。そのような動向はチャット内にもしばしば見受けられる。一部の”成功者”はいるとしてもそれでは彼女の願いは叶えられないだろう。

”ずっとこのままのような気がする”

彼女はポツンと街に突っ立っている

周りには会社員や学生などの男性がごまんと通り過ぎていく

そこに”男”はいない

背景が前面にせり出してきた時の

部屋の窓から見えるは灰色の空、100メートル未満にある家や車やアジサイの花は突然の激しい雨で霞んで見えるほどだ。ユーチューブの動画の音が雨音にかき消されて聞こえない。私はノートパソコンを閉じる。眺めながらバケツをひっくり返したような水量とその勢いに清々しさを感じていた。外へ飛び出してずぶ濡れになればよかった、と止んでから思った。
普段自然は背景に押しやられている。それは有るけど無い。目に入らない。生活に必要とされるアレコレに注意は向けられているから。当然のことだ。しかし今回のような突然の大雨は普段見えていなかった背景が前面にせり出してくることであり、結果それは日常を客観視する契機を与えることだった。私は雨そのものに清々しさを感じたというよりも、それによって自分の止むことのない小賢しさやセコさを一時停止させることにカタルシスを覚えたのだと思う。
しかしこのことにいったい何の意味があるのか。
世の中をかりそめのものだと悟り、結果凝り固まったこだわりが解けて他人にも自分にも寛容になり、人間関係は改善、二の足を踏むばかりだったのが能動的に事を進めるようになる。と、うまくいかないまでも大きく間違ってはいないと思うのだが・・。

陽光に透けた黄緑色が宝石を散りばめたようだった

扇風機が首を振っている。風はぬるいが無いよりはマシだ。風鈴が揺れてチリンチリンと涼しげな音色を響かせている。音で温度を下げようとする試みはアイディアとしてスゴイ。温度計の温度などどうだっていいのだ、私が涼しいと感じるならば。こんなこと言うと笑われるだろうか。
渓谷へ行った。遊歩道を伝って渓流まで降りる。地面は湿っておりシダ植物も多い。辺りには水の流れる音が途切れることなく聞こえている。無音では無いが静かである。熊が出没したらどうしようと考え怖くなったがまさかと思い歩き進んだ。谷の底から見上げれば木々の葉が空を埋め尽くすように広がっており、陽光に透けた黄緑色が宝石を散りばめたようだった。大きな岩、巻きつく蔓、その表面に生えた苔。一朝一夕に出来上がったわけではなく少しずつ少しずつ偶然に偶然を重ね現在に至る。努力ではなく、何が起ころうと老いて死んでいく運命のような、私の計り知ることのできないところでの自身の変動と同様にそれは出来上がった。落ち込んだり、鬱になったり、気が滅入ったりするのはこのような位相に接近している表れなのかもしれない。私は私でないところの私を置き忘れたのではないか、と。
人はいない。こんなところに金は落ちていない。マイナスイオンの真偽は定かじゃない。きっと健康にはよいだろうが証明する手立てはない(あったら教えてください)。逆に言えばこの空間を難なく独占できるしかき乱されることもない。世間を騒がせているニュースのほとんどはここまで届かない。

犬はきっと知っている

犬が地面にべったり身体をくっつけて目を瞑っている。ひんやりして気持ち良いのだろう。幸せは人も犬もそんなに変わらないのかもしれない。幸せは否応なく外見に出る。
私も床にうつ伏せにべったりしてみる。絨毯は暑かったが不思議と落ち着く。重力の関係だろうか。理由はよくわからない(わかる人教えてください)。考えてみれば足の裏だけでこの身体を支えていると同時にその面積だけが接点なのだ。飛ぶ鳥に孤高を覚えるのは地面との接触を断っているからだ。家の中では地面(床)との接触が多い。学校や会社ではほとんどない。リラックスや緊張と地面との接触には因果関係がありそうに思うがどうだろう。
狩猟や農業、そして工業、果ては情報産業といった変遷は地面からの遊離の度合いでもある。たしかに第一次産業が見直されている向きもあるがいいことだとは思いつつも怪しいものだとも思う。合理主義者が非合理を受け入れることと同様に難しいと思うのだ。今までは逆だった、非合理が合理主義に蹂躙され駆逐されてきた。結果スッキリとしたような、でも股の間がスースーしすぎるような妙な感じではある。
私たちは何に付き合わされているのだろう。弱いものいじめや弱肉強食、いやそれ以上の目を覆いたくなるような事柄は歴史を紐解けばいくらでも見つけられるし身近にもある。いつだって今だって。特別に現代だからこそ、ではないのである(もちろんあまり見たくはないが)。
水とH2Oは同じであって同じでなはない、というような変わった話をするつもりはない。だって水は水だ、空は空だ、地面は地面だ、大昔とそんなに大差ないだろう。それは大いに利用すべきもの。
が、やっぱ違うよな、と思い直す。
少なくとも、、ごろりと寝転んだ犬の幸福をかき乱したくはない。
犬はきっと知っている。
私は地面に手を当ててみる、医者が触診するみたいに。
大地の鼓動が聞こえてきたと言いたいところだがなにも聞こえはしない。
私がほんの何十年か前に生まれていれば聞こえただろうな。
それを迷信に打ち勝ったと思うのか、接触を失ってしまったと思うのかは意見の割れるところであるが。

カラスがカーと鳴くのは鳴きたかったからだ

人は怖い。
犬は怖くない、噛むけど。
人は怖い、噛まないのに。
熊は怖い、噛み殺されるから。
人の怖さは独特だ。熊とは違う。
熊にとっての必要は信じられる。あっさりしたものだ。
犬がワンと吠えるのは吠えたかったからだ。
カラスがカーと鳴くのは鳴きたかったからだ。
そこにはズレがない。
ひきかえ人はズレまくっている。
ズレは思考によるものなのか、思考はズレによるものなのか。
そしてまた思考は伝播する。
その内容ではなく”ズレがある”ということが広まる。
中身よりもスタイルに染め上げられる。
よって犬の吠え声の奥に目的を見出さずにはいられない。
納得したいのである、スタイルからの逸脱はなかったと。
人は怖くない、ズレていなければ。
もう鈴虫やコオロギの鳴き声が聞こえる。
あれはセックスアピールだろうか、なんて思わない。

雨の内省

生温いサウナ。
梅雨はまだ開けておらず、じっとりとした大気は無風のため動かず滞留している。草木は、山は春からの成長にひと息ついて水の微粒子に手を広げ、身を投げ出し、目を細くして天を仰いでいる。日差しは雲によって遮られ、アスファルトは雨に濡れてその黒を増し、キラキラと輝くものはどこにもなくそのしっとりとした佇まいに誇張や過不足がなく、いつもの町が少し小さく感じられる。それは私を町の外へ放り出し、当たり前だと思っていた様々なものを再度吟味させ、自身の当たり前は慣れ親しんだ色かたちによって育まれたことを教え、貧弱ないち地方の町に対する情けないような心持ちと、同時にきっと裏切ることができないだろうことを悟らせた。どんなに遠くへ行ったとしてもこの町を出ることは叶わない。私らしさは山の上方、曇り空の重なりや厚みやグラデーションのなかに隠れている。
私は遠くを探すよりも近くを探せばよかった。とは言え近くはなかなか見えないものだ。その町の住人よりも、遠方からの訪問者や旅行者のほうが案外よく見えたりする。旅行者の目でホームタウンを見ることができたならいくらでも近くを探すことができる。旅とは遠方での未知との遭遇であると同時に至近の再発見でもある。偶然に偶然を重ねて私は私という意識を戴いており、無数の網の目の結節点であることが恥ずかしいような誇らしいような、でも結局ダメな自分を諦めて自嘲気味に笑って許すのである。ありもしない理想像にあやかろうと努力してきたのは何故だったのだろうと考えながらまだまだ捨てたものではない眼前の風景をみつめ直す。
ぽつっぽつっ、止んでいた雨がふたたび降り始める。梅雨も幾日か経てば終わりを迎え、空は晴れ渡るだろう。私は再びなにかに取り憑かれ、追いかけ回すだろう。自分を見失って。
今はまだ梅雨の雨音に耳を傾け体内の力みを洗い流すことに専心するつもりである。

書く気合

暑くなった、本格的に。

ブログの更新が滞っている。原因は私の怠慢にほかならないわけだが、長文を書くだけの気合が湧いてこないのである。
一方、ツイッターのほうは毎日更新している。一言つぶやけばよいのでお手軽である。気合や体力は不要だ。
言葉を綴るというのは想像以上に心身に負荷がかかり、腸を絞りあげられる。溌剌とした表情の物書きは少ない。苦悶に歪んだ表情のほうが多い気がするがどうだろう。長年の間、欠かさずブログを更新しているブロガーはその内容がどうであれ無名であろうが尊敬に値する。実際にやってみてそう感じる。おそらくほとんどの人が行き詰まり投げ出してしまうだろう。

実のところブログ記事だって短文だ。短文には短文の良さがあるが長文を書けるようになりたい。もっと微妙なところを伝えられれば。
考えてみれば長文を読む機会は減る一方だ。よって書くこともままならないのは不思議ではない。また、めまぐるしく変わる世相を横目に長編小説に読みふけっているのもおかしいのかもしれない(ちなみに今日は都議選にて都民ファーストが自民に大勝したニュースが流れた)。

経済は好況(人手不足)。政治は共謀罪が成立。原発は風化し、技術方面ではAI(人工知能)。学んだのは所詮なるようにしかならないよ、という諦めか。
何が起ころうとそこにはいつも人間の等身大の生活が横たわっており、それは主義や理論ではない。
言葉はそういうところにあると思う。
体系化されておらずチグハグでどこか子供っぽいところもある。

やっぱ書かないとなあ、とこれを書きながら反省する。

地図とリアル

地図。
もはや地図帳を開くことはなくグーグルマップに頼りきりだ。
当たり前だが地図に記されている通りに歩けば目的地へ着く。それはグーグルマップになっても変わらない。地図そのものが発明されたわけではない。ブラッシュアップされただけだ。
山や川や道路や畑や交番や学校・・そのすべての情報が網羅されている地図。それは現実世界と1対1で対応している。グーグルアースという地図以上のものだってある。
あくまでリアルを抽出しコピーしたのが地図だ。その逆ではない。地図に従って現実が成立しているわけではない。
だが先にも書いたように地図に従って歩けば目的地に着くのであり、当人から見れば現実の方が地図通りにできていると感じるのではないか。このあべこべさに気付くのは思ったより難しい。

別の例を挙げると・・、自分の勤めている会社の課長を写真に撮ったとする。が、アラ不思議”課長”はどこにも写っていないのである。そこには”おじさん”がただただ鎮座しているだけだ(おばさんかもしれんが)。要するにその課長を知らない人から見ればただのおじさんにしか見えないということだ。にも関わらず課長に対して毎日ぺこぺこし、あるいは緊張したり仕事しているフリをしたりする(笑)”課長”という写真に写らないものを見ているわけだ。それは幽霊でありオバケであり妖怪でありキツネでありタヌキである。そんなものは迷信だと笑い飛ばせる人がどれだけいるだろう。
社会とはこのことではないか。地図情報のことではないか。私はそれに怒ったり落ち込んだりしてきたと思う。”おじさん”を”課長”と思うことそれ自体が社会である。社会は心の中に巣食っている。

人が好きだ。
でもその中に社会を見てしまう。
落胆する。
コノヤローって思う。
しょうがないよなって言い聞かす。
「山は山という役割を演じているのではない。」
「重荷から解放されることはあるだろうか。」
「地図が支配的になりすぎた。」
ぶつくさ言う。
ふて寝する。
ぼーっとする。
地図抜きで遠出する。
人がいない。
海を眺める。
無限のエネルギー。
・・・。
そろそろ帰ろう。
もう一度信じてみるか・・。

後ろ髪はハゲにくい

めざせ余剰人員。
スポーツで言えばベンチ、もしくはベンチのベンチ、究極のベンチ温め係。
普通に考えればレギュラー入りすることを目指し、さらにその中でも重要ポストに抜擢されればスポットライトを浴びて一躍スター、のようなストーリーを
誰から教わったのか知らないが信じている。ベンチを目指す人は変わり者だろう。
しかし、レギュラーになりたいと思うがベンチウォーマーを指向する変な引力も確かに感じるのである。後ろ髪引かれるって言うのかなあ。
結局そこから不幸や悲劇は始まったし友情や恋愛やいい人悪い人も始まったと思うのである。
見方によれば世の中分裂した狂人ばかりとも言える。

もう今年も8日経った、現在2時38分だ。日毎に分裂は深まっていく、それだけ余剰人員への引力も増していく。

カーストとガンガー 〜相模原事件に思う〜

焼けるように暑い。
うだるような暑さに肌がヒリヒリするしバテそうにもなるが、それでも夏が大好きだ。

もう十年経ってしまっただろうか。
私はその頃インドを一人で旅していた(このウェブサイトでも何度か書いたと思うが)。冬は結構寒いし、寒暖差は大きく夜は冷え込むこともあるが、やはりキホンは暑い国である。太陽の国である。ガンジス河から眺める日の出はドロリとした赤であった。夏になるとインドを、あの頃を思い出す。

私は旅行者をどこか軽蔑していた。上澄みだけを舐めて知ったかぶるような、片足だけはちゃっかりと自国に残しておくような、そんなスタンスを卑怯だと思っていた。しかし自分も所詮旅行者であって、今思えば自己矛盾ということになるが、気持ちとしてはインド人になりたかった。計4回、通算1年位、長い時は半年彼の国へいた。感覚としては5、6年いや10年位いたような気もする、なぜかインドは時間が経たない(笑)。

インド人になるためインド人のように振る舞う。生水を飲むと腹を壊すのはわかっているが避けることはできないだろう。結局それが原因か、急性肝炎に罹り、これ以上ないほど苦しむことになったが後悔はなく、今では財産だ。幼稚で貧弱な旅だったが、結果的に全てよかったと思える不思議(インドはそういう国)。インド人になれなかったのは心残りで、夢に変わったが、そのせいで日本にうまく適合できない(笑&泣)。

思い出話や武勇伝を語りたいのではない。
相模原の連続殺傷事件の犯人植松聖に足りなかったのは”ガンジス河”だったのではないかと言いたいのである。正確には河そのものというより河岸で行われている火葬のことである。ちなみにインドのバラナシというガンジス河に面した町では毎晩盛大に歌や踊りが行われている(賛美歌のよう)。

何故だろう、何故人間だけが葬式をするのか?

一方でインドには(特に先進国からは)悪名高いカースト制が存在する。だからインドは遅れている、後進国なのだという声も聞こえてくる。しかし相模原の事件は起こったし、経済格差(奴隷化)、ヘイトデモ(外国人排斥)も存在するのである。植松聖は特別だから・・という意見もあるだろうが、ある1点に時代の空気や社会の澱が凝縮した結果が今回の事件だったと私は考える。

差別を無くそうという掛け声は立派だが効果は薄い。現に虐待の事件がこのド田舎でもあったくらいだ。そこで私はかつて訪れたインド、バラナシのことを思い出したわけだ。

差別の反対が葬式だったのではないか・・。

その相反するもの同士を両輪としてバランスを取っていたのでは・・と。

カーストとガンガー。

インドのスゴさを再認識する。
生きていくことは差別することを免れない、これはジレンマというか痛し痒しというか、難問である。そしてその解の一つは”死(=葬式)”で間違いないだろう。
養鶏場前