ヒナゲシの花

ウェブサイト公開から一か月が経った。今までの文章を見直した。僕なりに一生懸命書いているつもりだが、ちょっと暗いかな。怨嗟のようなものを読み取ってしまう。それも人間らしくて良いが・・うーん。当然アクセス数はほぼゼロだ。そんなものだと思って書き続けるが。

今日はこれでもかというほど晴れている。暑い。近所でイベントがあり、親子連れや若者の姿がみられる。この天候のせいか、能天気な感じがする。僕もまあまあ能天気だが、本来そんなものかもしれない。いつのまにか蓋をされ押し込められ歪められて、気力を失ってしまうこともあるが。
生きていく文章を書きたいと思った。
立場を守ることに生はなく、境界をヒョイと跨ぐことに醍醐味があるのではないか。フェンス越しにヒナゲシの花が咲いていた。
ヒナゲシ

漫才ではなく

性急に答を求めすぎている。矛盾を抱え込みたくないという表れかもしれない。なにもできない自分にイライラとし、理解のない周囲にもまた敵対心をもってしまう。うまく説明できず、単純明快なロジックでまくしたてられればもごもごとしてしまう自分が情けなく、自信を失う。仮に同意を得られたとしてどうなるということでもないのに。幼稚だ、俺。

高台から遠くを眺めると田圃ばかりで、霞みがかった空気は緑がまどろみの中でうつらと身を傾けているように感じさせる。なぜかボケとツッコミがセンターマイクの前で漫才を披露している姿が思い浮かぶ。ボケは一見ふざけたことを言う。ツッコミは常識という刀でそれを切る。漫才は二人でやるものだが、一人のことである。ひと一人の中にボケとツッコミが存在しているのである。どちらが正しいのかというのはつまらない議論だ。私の中で両者が止むことなくベラベラと喋り続けているということ。両者が眠るとき、私は誰なのか。誰でもない私は、ひとり農道を歩いた。
カゴの中の小鳥

Everyday we say goodbye

生まれたての赤ん坊もやがては成長し大人になり、老いては死んでゆく。
当たり前のことだ。
刻々と変化している、何があろうと、私も私でないものも。
ずっと同じことをしている者、同じことを言い続けている者は一貫性や整合性があるようで本当はないのではないか。変化し続けている自身に対して。
整合性なく支離滅裂なほうが正直に生きている。が、それでいいのだろうかと躊躇する自分もいる。

夕暮れ時のオレンジに染まった家、道、ガードレール、車、草木などが儚いもののように感じられる。それがそこにあること、そして偶然にも私が居合わせたこと、したがって今日一日が確実にあったということ。何ものにも代え難く、それに勝るものがあるものかと強く思う。サヨウナラし続けることでもあるが。

塀からはみ出した木を見上げていた。背後から足音が近づいてくるのが分かった。近所のおばさんが、
「何してるの?」
って訊く。
「写真撮ろうかと思って。」
って言う。
「中にはもっといっぱいあるかもね、ここは昔からの立派なお家だから。今は誰も住んでないけど。」
「えっ、住んでない?」
「そう、空き家。」
おばさんは元来た方角へ帰っていった。
壁の花

写真についての戯言

「今、このテーブルの上に花瓶が置いてある。花瓶を注視した時、その背景が滲んでボケているのがわかるだろう。」
「うん、わかる。」
「今度はその背景、つまり花瓶の背後にあるその白壁に目を合わせると花瓶が・・・。」
「見えなくなる。」
「そう、ボケていく。つまり焦点が合っている部分ははっきり見え、合っていない部分はほとんど見えない。」
「至って当然のこと。」
「その通りなのだが、私が言いたいことは選択的であるということなんだ。花瓶を見るか白壁をみるか、という。」
「それは自分の勝手、好き嫌いじゃ・・。」
「そうなんだ、私も初めはそう思っていた。私は刺激的なものを見たい、美しいもの見たい、安らぐものを見たい、だからそれを選択した、と。だが、そう単純なものでもないようだ。」
「というと?」
「他でもないこの”私”が選択したと言い切れるだろうか。たとえば私は写真をかれこれ十年近く撮り続けているのだが、未だにうまく撮れない。」
「・・・。」
「実際にその場でその被写体を見た時はもっと活き活きとしていたはずなのだが、撮れた写真を見るとどうもこう・・・。」
「死んでる。」
「そう。これはいったいどういうことなのだろうかと何度も考えた。考えた結果、”見る私”と”撮る私”は別物であるということを発見した。」
「どういうこと?」
「ふと見えたものを撮っている。日頃見えなかったものに対する気付きを。そうして初めてカメラを顔の前に固定しファインダーを覗くわけだが、その時には日頃の”計算高い私”がそこにいる。」
「ということは、初めに見えたものとは別のものが写っているということ?」
「たとえば足元のアスファルトの割れ目に咲くタンポポの花を見たとする。それにレンズを向け、シャッターボタンを押す。そして、デジタルカメラの背面液晶画面にはタンポポの花が映っている。」
「同じだ。」
「だが違う。綺麗すぎるというか、収まりが良すぎるというか、上手く事が運び過ぎているというか。そういうものではなかったはずなのだ。見た瞬間にははっきりとした区別がなかったように思う。それがタンポポであり、アスファルトであるという分類さえも。」
「ちょっとした革命・・かな?」
「区別や分類、さらにその中で有益なものには価値が与えられ、したがって上下関係が生まれ、差別も生まれ、いずれ体制となるだろう。それが一瞬消え去っている。」
「怖いとは・・。」
「思うこともある。誤解しないでほしい。それは自分自身でもある。”撮る私”が”見る私”を追いかけている。」
「話を元に戻すと、”撮る私”として見るのか”見る私”として見るのか。」
「両者の視線が交差した先に、その時生きた被写体が写るだろう。なかなかうまくいかないが・・・。」
野原

犠牲

もしもアフリカに生まれていたら、もしもチベットに生まれていたら、もしもアマゾンに生まれていたら、もしもアラスカに生まれていたらきっと今の私のライフスタイルや思考パターン、感情表現は別のものであったに違いない。ふと気づけば極東の島国に私はいたのであり、そこに理由や必然性はない。選んだわけでもない。アメリカ人にも南アフリカ人にもインド人にもブラジル人にもパプアニューギニア人にも成り得たし、あらゆる様式を持つ可能性があった。にも関わらず、日本という国に生まれたことによりそれらの可能性は閉ざされてしまった。日本語を習得し、独自の身振り手振り(おじぎとか)、美意識、諸々のものがこの国に生まれたことの上に積み上げられていく。振り返れば私は一体何をしてるのだろうとか、何者なのかという問いが待ち受けている 。
私は自己否定や自殺願望に居座られ、反動からか旅に出たりもした。結局、作り上げられた私と生の私との相剋だったのだと思う。アジアや中南米から東京に戻り、契約社員をしていた頃、人間は悲しいものだなと思わずにはいられなかった。両肩にずっしりと重く圧し掛かり潰されそうなほどだった。うまく適応しなければ生活できない、適応すれば本当の私から遠ざかっていく。巨大な歯車と刻々と失われつつある何か。帰りの電車から見えるビルの明かりの数だけ、いやその何倍もの犠牲が今日も払われていると思うと憎らしかった。
スイバ

墜落

雇用の悪化、福島原発、沖縄米軍基地移設。切り捨て、無視、押し付け。次はいつ自分に順番がまわってくるのだろうかと不安になったり、がむしゃらに”努力”を続けたりする。あるいは、見放された孤児となり、絶望し路頭に迷ったりする。透明な私は浮足立ち、空中浮遊をし、空を駆ける。天上から見下ろせば、まるで何も起きていないかのよう。自然の摂理で事は運び、地球はぐるりぐるり今日も回っている。でもちょっと待って。黒い小さな点々がゆっくりと動いているのが見える。じっとして動かないのもいる。人、人、人。怒っている、叫んでいる、泣いている。思わずウッと固まった瞬間、空飛ぶ私は真っ逆さまに急降下、ドスンと尻もちを着いた。あまりの痛さに転げまわり、しばらく地面に顔を伏せていた。
ふと、地面にも匂いがあるのだと知った。
顔を上げると憎たらしいほどの「THE山陰~春~」ののどかな風景。
失ったような獲得したような、解ったような解らないような、妙な気分で家へと帰った。

暮れゆく匿名の一日へ

一日の終わり
たいしたことなかったな
今日も何もできなかったな
いや何もしなかったわけじゃない
仕事だってしたし
会話もあったし
遊びもあった
でも・・・
なんか違う
カラカラと回り続ける毎日
なにかになりたいわけじゃなかった
なににもなりたくなかったんだ

ひとり荒野に突っ立ったヒト
干からびた骨
かろうじてくっついた肉と皮
空は高く
しんと張りつめた空気
私は私のまばたきの音を聞く
メーター

見ないから見えないけれどやっぱり動いている

忙しくしていると見えなくなっているのがわかる。川の流れの中でバタバタと溺れないようもがいているみたいに。乗り遅れないように必死な形相で追いかけているように。
ここ山陰でも、道路には車がビュンビュンと走っている(都会ほどではないが)。道路を挟んだ向こう側には田圃でもない畑でもないただの草っ原が続き、さらに遠くには小さく家や小屋、大きめの白い建物が見える。上空は雲に覆われ小雨が降ったり止んだりしている。うっすらと霞んだその風景の奥行きに発見に似た静かな感動を覚える。
目の前の車道に焦点を当てるなら、その背景にあるものはほとんど動きがない。店の看板や広告のように注意を促すということもない。雲がゆっくりと流れ、草木が風に揺れているぐらいだ。よくよく目を凝らさなければ見えてはこないだろう。一方、草っ原に焦点を当てるなら、走る車は目の前を通り過ぎる匿名の人影である。動きがあり、色も鮮やかだったりピカピカしていたりで派手である。目を奪われることもあるが、それらは音と塵を立てて足早に去っていく。
攻撃性や無視(ネグレクト)が含まれていると思わざるを得ない。そしてそれは忙しく日常を送っている私自身に他ならない。