いつもの霞み

最近ずっと空が白っぽく霞みがかっている。黄砂が中国大陸から飛んできているのかと思って調べたらPM2.5の方が主のようだ。PM2.5などという言葉を知ったのも近年のことであるが、いつの間にかすっかり定着していることに驚く。PM2.5に限らず自然現象と人工的に排出された毒が絡まり合って渦を巻いているが、為す術なくその場しのぎの応急処置で済ませるよりほかない。重大だと感じるか、なんとかなるさと思うか、どちらが正しいかは後になってみなければわからない。

山陰道(自動車専用道路)の高架橋を山間の谷から仰ぎ見ると、よくこんなところにこんな高い橋を架けたなあとぽかんと口を開けながら猛スピードで走り去る車の音を聞く(車高の高いトラックはなんとか見える)。橋脚のすぐ隣にはぽつんと神社が建てられていた。当然神社の方が先輩であるが、遥か頭上に横たわる橋桁の裏側はこちらに尻を向けているみたいだ。それに屈辱を感じ腹を立てていたこともあったが今はもうない、どうでもよいことだ。谷から山の頂まで急な坂道を登ると海と港と家々と線路が見渡せた。もちろんPM2.5で霞んで見えた。
橋の裏

聞こえない雨

ポツポツポツ、ヘルメットの前面シールドに水滴が付着し分裂する。
雨、か。
降るとは聞いていたけど夕方からじゃなかったっけ。
ハイそれでは夕方から降ることにします、って雨雲が了承するならそれは便利で快適なようだけどきっと退屈すぎて気が狂ってしまうでしょう。
私は本格的な雨になる前に帰ろうとスーパーカブのスロットルを全開にして急ぐ。
結構濡れたが軽傷で済んだ。
久しぶりの雨だから草木は打たれて嬉しそうに見える。
今その様子を横目で見ながらこれを書いている。

しばらくブログ更新を怠っていたけれど、ただのとりとめもない日記のようになってしまいそれをウェブ上に公表する意味はあるのかどうか考え迷っている。
特に変わったこともなく何も起こらない日々への愚痴ややるせなさ、あるいは感謝といったものを書き綴ったところで恥を晒し、我が身の至らなさを公表しただけであってどうってことない、そう思う。
懺悔したいのならすればよいがブログでやっても・・。
今こうして生きていること、ぼーっと突っ立っていること、物言わず存在していること、森の静けさ、海の不気味さ、路地裏の猫がこちらを振り向く瞬間いったい猫は私の何を見ているか、そんなことに興味があるのかなあ私は。
何でもないものが何でもなくただそこに転がっているということを正確に伝えようとするのは非常に難しい、情報に載りにくい。
今だって無数の雨音が私の脳裏に響いているはずだが、ふとした瞬間にしか聞こえてこない、不思議だ。
誰かに耳を塞がれているわけではない、国家でも権力者でもない、隣近所でも家族でも会社の上司でもない。
この妙な喪失感に似た感覚はどう説明すればよいのか・・。
またとりとめのないものになってしまったけどブログは続けていこうと思っている(^_^)/
赤黄青

進行中の超大長編動画を見ながら

朝から雨、小雨だが止まない。昼過ぎに止んだ隙に外出するもまた降り出してずぶ濡れになる。

何をしていようと何を思おうとずっと何かを見続けている、誰だって今だって。揺り籠から墓場までずっと動画を見ているのと同じではないかと考える。布団の中でも夢を見ているわけで、実際に誇張なく寝ても覚めても見続けているということになる。当たり前のことだがもしかすると大変な事実ではないのか。過去に見た映像はどこへ行ったのか、それは記憶として脳のどこかに保存されているとしても切れ目のない動画として思い出すことはできない。死ぬ間際にそれまでの映像を全て見るというけれどそれは特殊な状況だろう。仮に何らかの刺激を感じれば記憶は蘇ってくるものだとすれば良くも悪くも人は保存済み動画に束縛されていることになる。ここで言う動画とは人も含めたあらゆるもの、風景ということだから風景に縛られているということになる。例えば《腑に落ちる》とは言葉が記憶としての風景にフィットすることであり、腑に落ちない以上言葉を弄するにとどまる。そしてその差を埋めることは難しい。
庭の桜

ハーブ&スパイス、グリーンカレーと旅の記憶

空一面灰色の雲に覆われいつ雨が降ってもおかしくないような、それでいてなかなか降りもせず時々パラパラと水滴が頭上に落ちてきては何事もなかったかのように止む。空は泣きたいけれど必死でこらえようとしているみたいだ。見守る側としてはひやひやするが。

インドカレーが食べたい。あの奥行き無限のめくるめくスパイスの連なりと重なり、いったいこれは何味なのか、差し当たってカレー味としか言いようのない独特の料理。日本食は刺身や冷や奴のようにシンプルであまり手を加えないのが信条でありそれはそれでよいが、アクやクセやえげつなさのような強烈さが懐かしくなることがある。しかしそのような店はない。あったとしてもも遠い。東京なら新大久保あたりにあるのかもしれない(韓国料理屋か?)、どこにいても近所にエスニックなレストランは見つかるだろうがローカル中のローカルここではそうはいかない。
私はスーパーへ行く。そしてレトルトコーナーを物色する。案の定日本のカレーばかりだがその中で本格的なのはヤマモリというメーカーのグリーンカレーだけだった。インドカレーではなくタイカレーになってしまったがタイの食べ物は世界一だと思わせるほどの水準だということを実際現地へ何度か行った私は知っている。350円くらいだった、レトルトにしては高い。
味は正にグリーンカレーだった。独特のハーブとスパイスの匂いがたまらない。日本の一地方にいながらいつでも食べることができるのだから便利になった(知らなかっただけか?)。しかし何かが違う、味はいい線いっている。以前インドカレーを食べた時もどこか違和感を覚えた。きっと味そのものに問題はない。説明しにくいけれど風土や環境の違いからくるものだと思う。同じものを日本で食べるのと彼の国で食べるのでは微妙に異なるのではないか。料理の豊かさは土着の豊かさと言ってみたくなる。部分的に地球をカジってるようなものだ。遠い異国において飛行機を降りた瞬間のあの感じ、違和感を覚えたのはそれと関係しているのかもしれない。
踏切の脇

暗闇の中の明かりとしての桜の花

今朝、テレビで流れた天気予報では最高気温20℃と言っていた通りよく晴れ暑かった。桜の木の周辺には車がずらりと並び、花見でもするのかしないのかわからないが、なかなか廃れない恒例行事のひとつに挙げられるのではないだろうか。多くのことが合理的になりスマートになり、それはつまり屋内化されていくこと引きこもっていくことだが桜の花をモニターで見るのと生で見るのではやはり違うし、周辺の環境もそうであるし、居酒屋やレストランで酒を飲むのともまた違う。夜桜を見上げた時の独特の感動は確かにあり、妙な孤独感を覚えたり、何があろうと花開く桜の木の底力に励まされたり、でも一時的ではなくいつもそんな風に思えていたら尚よいだろう。

世の中は抑圧的で非情で冷たく機械的なトップダウン構造をしているのだろうかと川の側を歩きながら考える。ずっと向こうには山が立ちはだかり、ぽつぽつと部分的に白くなっているのが見える。あんなところにも桜の木が立っているんだとほんの少し驚く。心には層がある、あるいは一色ではない、そう思いたい。足を止め、深く黒っぽい緑の山に色を添える桜を再び眺める。
海辺のタンポポ

切らない独立独歩

朝から雨が降り大気はしっとりとし、昨日までの霞がかった埃っぽさを大地に叩き落として流してくれているみたいで清々しい。雨に濡れたいろんなものたちはぐっとコントラストを増し、空も暗いせいか色が濃密になり植物の緑と黄色とピンクと赤と白が灰色の風景の中で映えて見える。それはちょうど落ち込んだ時ほど、うまくいかない時ほど自分の無意識のようなものが見えてくることと似ているような、いつも晴れ晴れとしていればいいってものじゃないのだと説得力を持って迫ってくる。

立つこと、自立、独立独歩、しかし独りよがりにはならない、隠遁生活をするわけでもない、それは可能なのか。そんなことを考えながら草がボーボーになった畑を横目に歩いた。甘ったれた私にしてはよい心構えである。いつの間にか私は、抑圧され排除され殺された多くのものたちの断末魔の叫びにばかり耳を傾けるようになってしまったのではないかと思うのだ。それがきっと人間に人間性を与えてくれるのだと信じるしおろそかにするべきではないと戒めるが、どちらにしろ死の上に立脚しているじゃないかという声も聞こえたのである。死者と生者のどちらが優位かといえばやはり生者だと考える。死者に罪悪感を覚える必要はない、私もいずれ踏みつけられるのだから。というよりも、立つことは死を離れるということではないはずである。分離のない自立、関係を持ちながらの独立独歩、どうにかそういうふうに生きたいと雨上がりの夕暮れの斜光を浴びながら思った次第である。
畑といろいろ

わかりたいけどわからない

今日もよく霞んでいた。椿の花は誰かにもがれたかのようにボトボトとその花を地面に落とし、反対に桜はまだ満開では無いがお馴染みの薄紅色の花を咲かせている。考えてみれば既に何度もこの繰り返しを経験しているわけで今更驚くべきことなどないはずだが、やはり目がそちらの方へいってしまう。驚きたいのかもしれない。地球規模の動きが確かに目の前にあるわけで、世界規模の連帯など夢のまた夢だと感じつつもやっぱりあり得なくもない、もし仮に人が自然を完全に理解することができたならば、と考えたわけではないが普段より意識が遠くへ行けた気がする。

そういえば待機児童問題はどうなったのだろう。少子化なのになぜ保育園が不足するのだろう。鳥取県は全然不足していないようだし。財源がないのだろうか。国の1000兆の借金はどういう経緯で膨れ上がったのか。片や、世界第3位の経済大国でもある。経済とは政治や国際社会の結果なのか、それとも人ひとりの心意気によるものなのか。つまり上が引っ張るのか下が支えるのか。弱肉強食は経済にとって悪い兆候なのではないか。それはマーケットが縮小することに等しいのではないのか。

釈然としないことばかりだ。だから面白いということもあるが、近いうちに調べたり勉強しようと思ってもなかなか腰が持ち上がらない。俺ってダメだ、と思う。こうしてほとんどのことを理解できぬまま99%の人が死んでいくのかなあ、いつの間にか巻き込まれ引っ張り回されて、それが何なのかわからないままに。
苔むす仏

夢の木のあるやなしや

午後は雨が降ったが午前中は晴れ間が見え少し暑かった。春霞で遠くが白く煙っていて幻想的で、黄色い菜の花に近寄れば花弁にはバッタみたいなやつが、茎には毛虫がくっついていて時々吹く風に揺られている。

昔ながらの集落へ行くと、その外れに墓地がある。古くからあるもののようで墓石や階段の石がオレンジ色に所々変色している。決して綺麗ではなく傾いたり不揃いだったりするけれどその様がいかにも人間らしくグッとくる。そしてなんといっても大木だ。何の木か知らないが墓によくあるド定番のあれ、ゴツゴツムチムチプックリの肉感的な幹をしたあれである(今度名前を調べておきます)。死人の養分を吸い取っているのじゃないかと思わずにはいられない。それは人の心にも同じことが言えるのじゃないかと思った。心の中の死人とは夢だ。抑圧され排除されたもうひとつの心が夢である。それは既に消え去り失われたものであり2度と還らないものだろうか。そんなことはない、いつの間にか夢の木は育ち葉をつけ花を咲かせその実を結ぶだろう。

だが付け加えれば、これは日本での話なのだ。例えばヒンドゥー教のインド人は墓を持たず、火葬されてガンジス川に流される。つまり墓標が無い。ということは死者は特定のどこかには居らず、近くから遠くまでどこにでもいる可能性があるということだ。結論すれば、『この世が夢』である。すごい。
大きなバケツ

線路に咲く花

冬の寒さは去り、春の日差しと暖かさが地上を覆い始め、それは魔法のように桜の花や菜の花を咲かせ始めている。線路の脇を歩いていると霞んだ空気のずっと向こうで雪を冠した大山がうっすら白っぽく見える。山の骨、山のレントゲン写真を見るような不思議な感じだった。

私は自由な気がすると同時に何にも寄りかかることができない不安を抱えてもいる。どこかに所属すれば不安は取り除かれたり軽減するかもしれないが不自由さと窮屈さを感じるだろう。不安ってどこからやって来るのだろう、自由ってどこへ行けば手に入るのだろう。
結論の有無なのじゃないか。結びとはコブのことである。コブとは引っかかりであり隔壁である。こんな問答を続けてみたって警察も軍隊も存在し続けるだろう、仕方ないよな。

目を瞑れば潮騒や葉擦れの音が聞こえてくる。蜂の羽ばたきやカタツムリのすり足の音まで聞こえてくるようだ。星だってチカッと光で物言う。世界中で天然の自己主張がひっきりなしに行われており、そこに力みや気取りはない。本来誰もが自由で不安など一片も持ち合わせていなかった。それはそれであり得た、彼は彼であり得た、そう彼女もあなたもわたしも。
私は夢見がちだろうか、非現実的だろうか、馬鹿だろうか、無謀だろうか。きっと詩人は現代には生きられないでしょうね。残念。
線路に咲く花

言葉にみつける

快晴。ここ数日寒かったもののだいぶ暖かくなった。渓流へ行ったところ、以前のように雪は無かった。そして川の水量は減っていた。小さすぎるヤマメを釣ってはリリースした。

ここ2ヶ月どうでもよいようなことを書いてブログに毎日アップしているが特別書きたいこと言いたいことがあるわけではない。ないけれどその時のノリで即興でなんとか短い文章だが原稿用紙2枚分ぐらいは書けている。案外できるものだ。しかし1記事書くのに1時間くらい掛かっている。毎日となると正直面倒くさくやめようかと思うが、もしかすると今までは書けなかったことが書けるかもしれないとか、今までにない言い回し・表現の仕方がみつかるかもしれないという期待を密かに持つ。継続して何かをやってきた人だけがわかることというのはきっとあるはずで、岩の中に動きを見るような、波の中に塊をみつけるような、そんな感覚ではないだろうか。

言葉ってなんだろうと思う。人を生かすことも殺すこともできる魔術的なもの。言葉が無い状態と有る状態では何が違うのかと思いを巡らせば、焦点の有無がそれに該当するのかなあとたった今思った。言葉の有無で風景の見え方はかなり変化するだろう。最近、モノが単独で他の物と分離してコロンと転がって小さく見えるのは言葉と関係あるのだろうか。
神社の土台