抑圧を見れば海が見える

埋め立て地の上に建てられたピカピカ真っ白のビル群、そこを走るモノレールはなんだか間の抜けた感じを受けたが、ぎゅうぎゅうで座れないほどの乗客たちの顔色から窺えることはひどく疲弊していることだった。それは何によるものだろう、お金か、人間関係か、えも言われぬ何かか。それがなんであろうと抑圧であることに大して差はない。互いに非難したり批判したり、そんな内輪揉め仲間割れのようなことをするのは愚の骨頂である。私たちは国家レベルの、いやさらに大きいレベルの抑圧を日々受けているーことを私は目撃してしまった。私たちは例外なく凹んだり欠けたりしている。目に見えない巨大な力によって押し潰されそうになっている。私は私でありたい、あなたはあなたであってほしい、でもできない。なんて単純で、なんて残酷だ。抑圧のせいでいびつになった人間を正視したとき泣けてきた。全人類の苦悩を両肩に背負わされたような気がした。それは重くて絡みついてきて身動きが取れなくなった。

私は仕事を辞め、実家へ帰り、引きこもった。もう何もしたくなかった。近くの日本海に足繁く通った。海はよかった。広く大きかった。今までなんて小さな街に住んでいたのだろうと思った。私はすべてを呑み込み受容する化け物の虜になった。
復原力のようなもの、船が傾いてもすかさず元に戻るようにーそれに当たるものがこの海以外にあるのか思案しては日が暮れる。
島根の寸景

穴掘り職人

俺は穴掘り職人だ
口は悪いが腕はたつ
がしっがしっとスコップで掘れば
お望み通りの深さまで
いつだってどこだって

でも
近頃はなんだか様子が違う
失われた20年ってなんのことか知らないが
確かに変わった
俺の口の悪さには定評があるが
最近は誰も笑わなくなった
言っちゃいけないことなんてあるのか
だいたい俺は強きをくじく言葉しか吐かない
まあ行き過ぎることはあるにせよ
それだって冗談だよ
俺はテロリストじゃない
要は穴掘り職人に口は必要ないってことよ
この腕が本当なんだ
何を言ってもこの腕が穴を掘ってさえいれば
そこに嘘はない
無色透明な言葉の意味を気にしたって
なんになるんだ
強者はさらに強くなり
金持ちはもっと金持ちになる
成功者はひたすら賞賛され
ダメな者は叩かれ続ける
血も涙もなくつまんねえよな
言葉につじつまを合わせたってしょうがねえ
去りゆく時間を追いかけているだけだ
ともかく
本当の心ってもんがわからなくなったんだな
頭が良くなりすぎて
言葉はパッケージみたいなもんさ
コンビニに行けばパッケージだらけだろ
派手派手ケバケバのな
中身は地味だよな
俺たちは嘘に慣らされている
俺は悔しいと思うが
どうすることもできない
ただ掘るしかない
誰に気付かれなくとも

俺は穴掘り職人だ
口は悪いが腕はたつ
がしっがしっとスコップで掘れば
お望み通りの深さまで
いつだってどこだって
路肩の椿

冬山から下りてくる華の

今日は寒い一日になりそうだ。時々雪がパラパラと降り、窓は曇り、肌を刺す寒さだ。空一面雲に覆われ、雨と雪によって窓外のありとあらゆるものは濡れて、椿の深緑の葉が妖しく光っている。たまにメジロのような小鳥が降りてきて木に止まったり地面をピョンピョンと飛び跳ねるように歩いている。見ていて可愛らしいが、こいつらが車に白い糞を撒き散らすと思うと複雑である。冬にしか見られない鳥はきっと山から下りてくるのだろうが、単に食料を求めてのこと、経済的理由からだというのはつまらない。枯葉も山の賑わいというか、殺伐とした冬の風景に華を添えようとしているーそう思いたい。鳥や人や生き物全般を経済的動物に見立てることは可能だが、なんだか味気なく友達になれそうもない。

経済のことは誰か偉い人が考えてくれている、もしくは考慮することなく上手く動いていくものだと思っていた、自然の摂理というか。自然に流動し循環するものであって口を差し挟むものではないと思っていたのだ。私は甘かったのでしょうか、見誤ったのでしょうか。
信じていた、善い行いや嘘のない言葉を。人の中に住む神様はそれを見逃すことはないと考えていた。通じることはある、あるが・・ほとんどあらゆるものは形骸化し、難解な病名だけが増えていく。
林道

牛の居所

空一面雲に覆われ、ぽつぽつと雨が降っては止み、花粉も少量飛散しており(私の鼻で感知)、均一な光はすべての物体の影を奪っている。光線は頭上からでなく、足元から発せられているかのように錯覚しそうで、見慣れた風景も空が暗く地面が明るいという倒錯のおかげでなんだか意味深長に感じられる。

スーパーの玄関先ではたこ焼き屋が露店を組み立てており、その横には老眼鏡と補聴器の移動販売の車が停まっていた。経営は成り立つのだろうかと首をかしげるし、心配する。現在フツーに見られる光景もあと数年で見られなくなるのかもしれない。そしてそこには人の失業がある。
鳥取県のような田舎でもネット環境はほぼ整備されつつあり、スマホのような無線であればスピードはさておきどこでもウェブに繋がる。家に居ながらにしてやろうと思えばほぼなんでもできてしまう。
現実世界からネット世界への置き換えが行われている。それはプログラミング言語の代表であるJAVAのオブジェクト指向の考え方と一致する。人の機械的営みはまさに機械が担うことになる。寂しい気がするが時代の趨勢というほかない。そして今あらためてITの国でありながら路上を牛が闊歩しているインドの凄さを思う。

かつて私は渋谷センター街や新宿歌舞伎町あるいは丸の内や西新宿都庁周辺を牛が歩いたり寝そべったり糞尿を垂れたりする光景を本当に夢見ていたことがある。現状を嘆くよりもインドで見た牛やそれに代わるものの必要や重要性をふたたび思う。
パレットと袋

消えた場所へ

通り過ぎてしまうような場所、ピンとこない、ぱっとしない、嫌うことすらない、ニッチな空間。つまり<あるのにない>場所。そういうところを選んで撮影している。例えば並行する道路と線路との間にあるガードレールと藪、資材置き場周辺、橋の下、墓地の暗がり、小さな沼、畑と畑の区切り、側溝の終点、etc。それらは私にとって盲点であるから、なかなか発見し難く、本当は言葉では表現しにくい。心構えとしてはどんなにつまらないものでも馬鹿にすることなく足を運ぶようにしている。いつも素通りしてきたであろうエリアに目星をつけ車で移動し、そこから徒歩で勘を頼って運に任せて人ひとり通れるような小道や草叢を進んだり振り返ったりした結果、うまくいけば被写体に出会うことができる。縮めて言えば、角を曲がった瞬間にぱっと出会えるかどうかだ。そして角は無限にある。

そんな下手すると不審者に間違われるようなことをして思うのは、あらかじめ言葉によってフレーミングがなされているということである。既に言葉によって世界は構築され、それにそぐわないもの漏れたものは”ない”に等しい。そしてその”ない”と思っていたものを目撃することが発見である。「あるじゃないか!」って。ということは自作自演であり、ひとり相撲である。私は思い込みやこだわりが強い方だから、写真でバランスを取ろうとしているのかもしれない。自分の紛失物を自分で探しているようなものだ。

ちなみに不審とは言葉のフレーミング外にはみ出すことである。裏を返せば、通常は言葉の世界を生きているわけで、もっと言葉が豊かで美しくなることを願う。
鳴り石

墓場の則天去私

ひなびた港町の高台にある墓地から、眼下に連なる家々と漁港漁船ずっと向こうまで続く海を眺めれば、揺り籠から墓場までの全てを見通したかのような錯覚に浸り、天の存在を感じずにはいられない。夏目漱石は晩年『則天去私』という言葉を残し他界したが、高台の墓地からの眺めとその感動のことを言ったのではないかと思えた。

町そのものがひとつの生き物(有機体)であり、そこには個人でも現在ある集団でもなく長い長い時間の連なり、ひい爺さんからひ孫、という時間を超えた集団が形成されており、そこには一本貫かれた物語の原型が横たわっている。端的に言ってしまえば皆兄弟ということであり、自分と他者の境界線はもっと曖昧だった。つまり揺り籠から即墓場に直行だった。

幼稚で弱小だったということもできるが、当人は至極当たり前に生き、幸せだったのかもしれない、いや幸せだった。インドやネパール、グァテマラやホンジュラスを旅した経験から照らし合わせると断言できる。龍の棲む町は珍しくなく、その背中に乗って一大スペクタクルの中を駆け巡り、その大河ドラマは気が遠くなるほど続いてきたという痕跡を垣間見てきたから。例えばそれは祈る姿であり、石畳の道やレンガの壁、衣装や歌や踊り、何よりも人の佇まいだった。

かつてはこの国にもそれがあったのだなあと、今や『三丁目の夕日』が映画になって久しいというのにしみじみ思う。
畑の脇道

雨雨雨雨俺雨雨雨

朝から本格的な雨が降っている。雨が降ると外出が億劫になり嫌だったが、ウェブサイトを始めてからは好きになった。ふとした瞬間聞こえてくる雨音、雨に濡れて色濃くしっとりとした草木と道路。それを感じながら文章を書くのが心地よい。外を感じながら書くというか。書くことは独りよがりの内的作業になりやすい。それはネットの世界を覆ういかがわしく不健全な雰囲気と一致すると思う。私の場合はなるべく天候の話とか具体的な事を盛り込み、写真も同時にアップするように心がけてはいるが・・。
私の浅知恵ではおそらくウェブ制作で鍵となるのは文章(テキスト)であるから、まさに〜恵みの雨〜と言えるのかもしれない。雨が『書く素地』を潤して私は単なる媒介者となるのなら、そんなに素晴らしいことはない。

話は変わるが、なぜ集中が途切れたときに雨音はより聞こえてくるのだろう?
BGM(バックグラウンドミュージック)よりもBGMである。インドや東南アジアの雨期を思い出す。道路は舗装されておらずむき出しの地面のいたるところに水たまりやミニ川ができていた。サンダル履きの足は外出するたびにビショビショになった。
私は雨音を聞くために、再び聞くことのできる耳を取り戻すために彼の国へ行った。
突き出た木

冬に引導を渡すかのような

風が強い。冬も終わりに向かいつつあり、春も近い。そう思わせるような天候だった。草木が風に揺さぶられ荒れ狂っているようだった。若干、空は白っぽく霞んでいた。政治経済や社会情勢などとは関係なく季節は巡り、それに沿うように暮らしているのが現実であり庶民感覚である。自然の循環、摂理がそのまま法でありそこに矛盾はない。そんな前近代的な基準から今や遠く隔てられてしまったのだろうか。自然はただただ搾取されていき、いつも物言わず為すがままだ。

大移動が起きている。自然に寄り添う価値観や信念は貧弱であり以前ほど生活を担保してくれない。海には汚染水が垂れ流されており、ゴルフ場はいたるところに造られ、リゾート開発もされ尽くし、近所の田畑も減った(最近は誰も言わなくなったことばかりだが)。要するにやったもん勝ちなのである。
作家や芸術家やヤクザが最もわかりやすく対抗してきた印象を持つ。現代の農民一揆だ。私はなんとなく気になり、好きだった。それが正義だと思っていた。でも今は叫びや嘆きに変わってしまった。

NHKのテレビ番組でブラジルへ渡った移民がジャングルの大木をノコギリ一本で伐採し、開拓し、そして現在はひとつの町として存在していることを放映していた。番組の主旨を離れて、さらに木を切る必要があるだろうかと考えさせられた。初めは正しかった。バッサバッサと木を切り倒せばよい。しかしやり続けるのは間違いだと思う。
一方、少子高齢化と過疎化で人がいなくなりつつある辺鄙な田舎の集落では空き家や放ったらかしの田畑で草木がボーボーに伸びきっているのをみると複雑な気分になるが・・。
猫と銅像

断続的書欲/写欲

ここ最近、毎日ブログをアップしている。その理由は現在失業中で暇だからである。半分は冗談だと思って笑ってほしいが、本気でやろうとも思っている。もうすぐこのウェブサイトを始めて1年になる。サイト名も何回か変えており、また変えたい(そろそろ飽きた)。それよりなぜ毎日下手な文章をアップするのかというと、もう書くことがない状態を目指しているため。不満や欠落感が書くことの駆動力になっている、それを埋め合わせようとしたり諦めが悪かったり夢を見たり。だからあまり真に受けすぎないよう読んでやってください。とにかく、書かないために書いている、吐き出すように。

少し別の話をすれば、私は写真を撮っているけれど考えてみれば写真ももう撮れないと思ってからしばらくするとまた撮りたくなる。そして少しづつ進化していく。そういうものなのかもしれない、つまり出し惜しみはするなということ、どうせ次がある。加えて、今この瞬間も誰かが何処かで写真を撮っているのだからーしかも膨大な枚数ー私が撮ろうが撮るまいが大差ない、慌てることもない。地球上のものすべてが写真に撮られてしまった現在、もう撮る理由などないのかもしれないし(グーグルマップとグーグルアースすごい)。それでも今日の午後、冬の柔らかな斜光を浴びた木の幹が妙に生々しくてドキッとした。写真で対象を捉え完全に理解することは未だ叶っておらず、したがってこれからも撮り続けなければならない。
取り留めがなくなってきたので今日はもうやめておく、また明日。
樹皮

音のないアダージョ

本屋へ行くと村上春樹と堀江貴文とビジネス関連の本が目立つ場所に置かれていた、他にはハウツー本やアドラー心理学の本など。世の中は変わらない、停滞や行き詰まり感を覚えた。
冬の曇り空の中、車を走らせながら未来のことを考えていた。ふと旧ソ連の代替になる存在ってあるだろうかと思いを巡らす。IS(イスラム過激派)はそれに当たるのかもしれないが圧倒的に不利である。べつに軍事や経済に限らず強者が二の足を踏み、反省し、矜持を持ってくれればそれでよい。正しさが2つ以上あればいいのにって思う。
車内からいつもの風景(ガードレールや畑や枯れたススキ)が流れているのが見える。俺はいったい何をしているのだ、と目の前の現実に引き戻される。ゆったりとしたテンポで生きているーリラックス時の呼吸や心音のようなーものたちが、この大地の心音とでもいうべきものが信じるに足る。それはちょうどマインドとハート(アメリカと旧ソ連)の違いであり、いつも同時に起こっているはずである。精神は2階建てになっており、同時に1軒の家である。
神社の鐘