時代

強者が弱者に、富者が貧者に与えたり庇ったりそっと手を差し伸べたり。
そんな雰囲気が確かにあった。それが関係であり、付き合いだった。
格好いいことだと思っていた。大人だと思っていた。
金メダルやノーベル賞に興味はなく、屁だと思っていた。
民主主義なんて必要ない、これさえあれば・・。

時代は変わった。
生活困窮者や精神疾患はザラ。
国は破れ、家族は離散。
荒涼とした風景。ちょうど3.11の時みたいに
そうはさせまいと抗っている人もいる、私も賛同したい。
文化人や知識人も大体そうだろう、そう思いたい。
しかし、生ぬるい、あまい。
一刻の猶予もないのだ、いま困窮している者にとっては。
労働環境の悪化、原発問題、安保法制強行採決。
欠落。
もう一度取り戻すことは難しそうだ。
川内原発も再稼働したし・・。

いまアマルティアセンという経済学者の本を読んでいるが、民主主義でない(権威主義)国には大規模な飢饉が起こるという。飢饉とは不作による飢餓のことだが、ここでは不況や災害による困窮という意味である。例えばGDPが-10%になればすべての労働者の収入が平等に-10%になるかといえばならない。極端に言うと10%の人が解雇され、その他は無傷ということである。現実はそれに近いだろう。そしてその時こそ民主主義の真価が発揮されるのだと。正に現状を言い当てていると思った。

もう古き良き日本はないのかもしれない。格好いい大人だって。
だとすれば・・・。
夏の夕空

忘却と環境

今日は終戦記念日。
8月15日に特別な思いを抱いたことはない。それでもここ最近は存在感を増してきた。また8月6日、8月9日の原爆投下の日にも同じことが言えるだろう。70年前という遠い昔が、胸元に現実を突きつけてくる。安保法制と原発と。川内原発は再稼働、政権は法案を衆議院において強行採決。もう忘れてしまったのだろうか、それとも忘れたかったのだろうか。
今朝NHKの連続テレビ小説を偶々見て違和感を覚えた。ストーリーはよくわからないが、庶民的、昭和レトロ風なセットの中で演じている役者にである。浮いていると思った。綺麗すぎるのかな、女優だけでなく芸人も。木造の家ではなくマンションの方がずっとよく似合うと思う。

忘れようと思って忘れることはできない。
ブランコ

マネーという鏡

お金、経済、マネーの事を考えている。その方面については全くと言っていいほど不勉強だ。易しいと思われる本を数冊読んだが、なるほどと思うことも多い。アダムスミス、マルクス、ケインズ、フリードマン、リカードといった人達の理論は既に一般的になっている。私にすらそう思われた。当然、経済学者の名前など知らなかったのだが・・。そのくらい浸透しているということ。テレビや雑誌やウェブから溢れる情報の多くはこれら経済理論の焼き直しなのではないか、そんなふうに思った。
最近は政治の動きが激しく右と左に分裂してしまいがちだ。デモ行進も盛んだ。それでも押し切られてしまう。強行採決されてしまう。そして政府与党の背後にはアメリカがチラチラと見える。つまり、「左派<右派<アメリカ」という構図だ。これを経済に例えると「伝統的経済<近代的経済<新自由主義(ネオリベ)」になるのではないか。政治が先なのか経済が先なのかはわからないが、政府としては新自由主義路線に切り替えたいのかもしれない、もしくは圧力を受けているのかもしれない。小泉政権時代の郵政民営化などはまさしくそれに当たる。そして今、経済状況はどうなっただろう、見通しはつけられただろうか。是否はともかく、日本的経営、家族的経営への未練が残る。違和感を覚えながらサラリーマンやOLをやっている人も多いのかもしれない。私にとって経済は盲点だったのであり、いつのまにか世の中がそうなっていた、知らないうちに浸透していたという感じだ。時代は変わった。好き嫌いではない。しかし思うのは、「左派<右派<アメリカ」、「伝統的経済<近代的経済<新自由主義」という構造に対して冷たさを覚える。
きっと無視されているのだ。
木漏れ日

暴走は止まるのか?

たった今、過去の記事にさっと目を通した。何を言っているのかよくわからない(笑)。それなりに真面目に率直にその時に感じたことや思ったことを書いているつもりだが、忘れたころに読み返すと妙に恥ずかしくもあり、でもしょうがない、そういうふうに思ってしまったのだからと苦笑する。そこには当時の(そんなに昔ではないが)背景というものがあり、影響され翻弄されそのような言葉が吐き出されてしまったのだろう。どうにか下手でも間違いでも抗ってでも生きていこうとする私がそこにはいたはずであり、それ自体に正解も不正解もない。

最近の最大の事件といえば安保法制の安倍自民内閣の強行採決だ。ついに本性を現したか。いつも国民は置き去りにされ、強引に決定し、犠牲を強いられるのはまた国民である。私は憲法改正にも有事に備えて軍隊を持つことも現実的には賛成であり、理想を言えば大反対である。
いずれにせよ一番の関心は、政府は、国家は暴力をコントロールできるのかということだ。暴力の抑止が憲法の役割であり、憲法違反の現内閣にはそれを望むことは到底できそうもない。暴力とは単に武力行使によるものだけではなく、経済格差や差別、説明不足の増税、フクシマ、オキナワ、虐待・いじめ、さらにもっと微妙で微細なものまで含まれるだろう。もともと日本人の感性は鋭敏であるから、暴力を振るわれている感じはほとんど誰もが持ち合わせているのではないか(特に女性や子供、若者にそれを見て取る)。この感じに意味はあるのか、それともただ弄ばれているだけなのか。
何も解決されないまま暴走し続け砕け散る悪夢を私は見たくはない。
歩道と塀

少林寺拳法創始者宗道臣

前回からだいぶ間隔が開いてしまった。一週間に1、2回は更新したいのだが。
あまり言いたいことや書きたいことがない。そんなことしたってしょうがない、恥をかいて徒労に終わって意味がなかったなと無力感を覚える。あきらめが先立ってしまうというか。

少林寺拳法の創始者宗道臣(そうどうしん)の「強さとは何か?」という本を読んだ。氏の生い立ちと講演会での言葉を収めたものだ。1911年生まれの戦争経験者である。言葉に妙に説得力があり現代の成功者とは一線を画している。巻末の顔写真も素敵である。血肉、重力、苦悩、陰影、死、大地、家族というような印象を受ける。私が尊敬し、憧れるタイプの人柄である。闇の方から人や世を正そうと尽力する情に厚い人、愛憎の深い人。
日本人を団結させていたのはお上(権力)と民衆(忠君愛国)という縦の繋がりだったのだというようなことが書いてある。横のつながりはほとんどなかったとさらに続く。つまり、敗戦により縦の鎖が千切れバラバラになった日本人は自分のことしか考えない。最近の「失われた20年」を思い起こす。権力側は強気になり、民衆側は内部分裂といった感がある。必ずしも縦の鎖を否定するわけではないが、やはり横のつながりを強化できないものか。満州国とソ連の国境、東満国境では開拓団や少年義勇兵、女や子供を捨て置いて軍隊だけが逃げたのだから。過度の信用はよくない。
嗚呼、一介の非正規社員の私がなぜこんなことを考えねばならないのだろうと気が滅入ってきた。もうどうでもええわ!って、日本や社会や政治・歴史なんて。最後に、一番感銘を受けた氏の言葉を引用させてもらう。
”生きている間は死んでいないんだ、で負けたんでもない。死ぬまでは、生きている間は負けたんじゃないんだから。だから、とにかく一所懸命生きていこう。”
芝焼き

王様は裸だと言ったのは

妙な恐怖を覚える。
西洋近代科学に、とでも言えばよいのだろうか。うまく表現できないが、情や自然、間や節、重さや濃密さ、秘密や婉曲(ほかにも沢山)が圧迫を受けているような。
コインやおはじきやビー玉を卓上に並べるように、あらゆるものが誰かの手で明るみに出され小さな一つの括りに格下げされてしまう。信じることが馬鹿のやることのように思われてくる。
「おまえは間違いだらけの無力な存在なのだから、強大な力を持ったこちら側へ来るのだ!」と誘惑あるいは恫喝されているような気にもなる。ふらふらと吸い込まれたものたちも多数いるはずだ。

あなたは真理などではなく、強引に都合のよいように推し進めているだけではないのか。私はあなたの家の中で監禁(軟禁)され、間取りや照明のスイッチや蛇口や洗濯機置き場に精通しているあなたをなんだか立派でスマートで物知りだと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
それを知らせてくれたのは”外部”だった。
波の泡

ビルマの竪琴

映画「ビルマの竪琴」を借りて見た。
なぜか戦争映画を見たくてレンタルビデオ店へ行ったのだが、選べる本数自体少なくどちらかというと右寄りの内容(パッケージの裏のあらすじを読む限り)のものばかりで仕方なくこの一本だけ借りて帰った。レンタルビデオ店の戦争コーナーの僅かなスペースにも時代の波は押し寄せてきているのかもと溜息が出た。おびただしい名もない戦死者達はなぜ死ななければならなかったのかと問われることなく、お国のためにこれ以上ない献身、奉公の精神をもって玉砕していったのだと美化され、ぼんやりと平和ボケして生きる現代人に見習うように諭すような内容だ。映画という表現の世界も危うさを孕んでいるものなのだなあと感じた。

ビルマの竪琴は水島という日本兵がビルマの僧となる話である。なぜ兵士が180度変わって坊さんになったのか?

死体、だったのである。日本兵の死体を目の当たりにすることで徐々に水島の心境は変化していく。殺戮から鎮魂へと。死体を見ることで政治や歴史といった国家レベルの文脈(シナリオ)から解放されたのではないか。昨今の右傾化とは全く逆のストーリー仕立てだ。
さらに驚いたのは冒頭で『文部省特選』の文言が表示されたことである。時代は変わっていくものなのだなあ。ビルマの高僧のセリフが思い浮かぶ。
「まだわからぬのか、日本軍だろうがイギリス軍だろうが、ビルマはビルマじゃ。」
紫陽花

右と左は左と右

さっき海に釣りに行った。ゴミばかりで釣りにならなかった。プラスチックやナイロンもあるが、大量の藻やちぎれたワカメである。砂浜伝いに裸足で歩いて移動をしたが、行けども行けどもゴミばかり。海から見れば私の歩行は動いていないのと同じだ。あきらめて帰ることにした。どうにかできるものではないから。
私はあきらめが早いのかなあ。早くなったのかなあ。長いものに巻かれろ、寄らば大樹の陰というのではなく、それ自体もあきらめやめてしまう。結構混雑しているみたいだし。私は左派ではなく、右派になりきれなかったのだと思う。ある時点でそれは蹴飛ばし合いに変わり、果ては殺し合いになるだろうということを見て取ったから。右派には定員があるみたいだった。

日本政府がアメリカの操り人形だとすれば右派はアメリカに賛同していることになる。操っているその本体に。ということは売国奴ということになりはしないか。反対に左派はアメリカにノーと言っているわけだから、日本政府を応援しているということになる。自立したいのだと。つまり、右と左が入れ替わる。ややこしい話である。

この国はどこにあるんだ?
菖蒲