雨の学校

午後からは雨、午前中は晴れたが。まだ寒い。そろそろ暖かくなってもよいと思うけど、そうはいかないみたいだ。
雨の中、車を運転すると水滴がガラスを伝って落ち切らずに途中で止まったりする。窓の向こうでは当然雨に濡れた街中や田んぼや畑が見える。なんだかわからないけれど感じるものがある、悲しいような、切ないような。雨は天然の情操教育だと思う。私の感情や知性など元来無く、それは外からやってきたものだ。外である風景が変われば、良くも悪くも異なった情操を持ち合わせた人間が生まれるのは当然。
私は建築には全く詳しくないが、その重要性を最近になって考える。見たところ古い建物の方が造りは凝っていることが圧倒的に多い。手作りと大量生産の違いということだろうか。また、建築の世界でもユニクロのような勢力が幅を利かせているのか。情操教育的にはあまり良いことではない、と言ったら誰か聞いてくれるだろうか。
雨は建築物の老いも若きも等しく濡らし、老いは馴染んで若きは浮き上がって見える。隣の車線を大音量の音楽をかけた車が走り去っていった。
木と電柱と自転車

ベルギーのテロと私のわからない

寒いけど快晴。
最近のニュースはベルギーでのテロと乙武氏の不倫か。不倫の方はどうでもいいけど、五体不満足な人はインドの街中を歩けば特に珍しくもなんともなく興味がわかない。やはり本題はテロだ。
テロリズムをウィキペディアで調べてみると利害対立者の行動をテロリズムと呼ぶのは正当化のためのレトリックであると書いてあった。ベルギーは対IS空爆参加国でありそれに対する報復行為であるとみるのが自然だと思う。しかしこの”空爆”というのがよくわからない、シリアで欧米諸国を中心とした有志連合軍が攻撃しているらしいことはわかるが実際のところどのようなものなのか。
ググってみると、死者は数千から数十万と開きがあってはっきりとはしない(当然だ)。しかし空爆の写真を見ると相当数が死傷してもおかしくなさそうだ(専門家ではないが)。空爆回数は数千回を超え、その裏では巨額のマネーが動いているようだ。話は逸れるが日本にも軍需産業があったのは初めて知った。安倍首相が武器の輸出を解禁したことは聞いたことがあったような。輸出の解禁であって製造自体は以前から三菱や川崎といった大手企業がやっていたのも知らなかった(不思議はないが)。
最も驚いたことは軍事や武力行使の実情を自分は全然知らないということだった。新聞やテレビでも情報自体は流されているはずで実際に目にしてもいるがどこかピンとこない。想像力が働かない。なぜなのか考えてみても答えは出ない。
神社からの眺め

おとなのゆめ

子供の夢
野球選手や大工さん
パイロットや花嫁
ケーキ屋さんや花屋さん
かつてわたしたちは
何者かになりたかった
でも今は
後悔している
子供が子供であったあの頃
夢は叶っていた
夢の中の住人が夢に気付かないように
あの頃もそうだった
そう誰でも
子供は子供を知らない
無邪気さだけの
夢の中で夢を語った滑稽さ
それでもいつか
夢から醒めて
初めて夢に気付くんだ
だから
大人になるって醒めること
醒めて醒めて醒めて
疲れ果て
歯ぎしりし
不快感露わにし
痛みを伴い
悔し涙を流し
どこにもわたしがいないと悟った時
時間は止まり
すべてのものが
血肉であり
化身であると
わたしは千の顔を持ち
ひとつの体を持つ
夢は叶っていたんだ
地図

プカプカ浮かぶ雲の下で

今日は一日寒かった。一度暖かくなってからの寒さだから余計に寒く感じられ身にしみる。雲が空に多数浮かんでおり、たまに太陽が顔を出したりまた隠したりを繰り返していた。雲ひとつない快晴の空よりも雲が浮かぶ空の方が立体感を感じることができて好きである。自由な生き方を雲のようになんて言うし、禅僧のことを雲水と言ったりもするが、とらわれず流れていく様を雲に重ねて表現することに違和感はない。

最近フロイトという精神分析学者の本を読んでいる。なかなか難しく読み応えがあるが、それだけの価値ある内容だと思う。その中でセックスと暴力(を被ること)については教育が行き届いていないという旨が書かれている(因みにこの本は1930年頃のものである)。それはつまり抑圧について言及されていないということだと私は解釈する。抑圧というのは暴力であり、差別やいじめもそうだろう。抑圧された心は無意識へと押し込められ、無意識とは端的に言えば性欲だ。つまり抑圧の無意識への照り返しが性欲である。それでは抑圧というのはいったいどこからやって来たのか。父である。父親的存在といったほうがよいだろう、目上というか、力というか。

浅学な私に理解できたかどうかは疑わしいが、この”抑圧”をスムーズに受け止めることができるかどうかが肝なのではないだろうか。そのためには圧倒的な信頼関係が必要である。
砂畑の倉庫

カメラの操作ではなく写真の読み方を

今日は午前中は小雨が降った。一日雲に覆われて少し寒かった。一度外へ出たが雨が降ってきたので途中で引き返し、今日は今まで撮ってきた写真の整理をすることにした。
膨大な数の写真をパソコンのモニター上で取捨選択し仕分けをする。実はこの作業はずっと前から嫌いで避けてきた。どう選べばよいのかわからず迷子になるからだ。べつにガイドラインのようなものもなく、ただの独学でやっているわけだしわかるわけない。ウェブで調べてもそのようなことは載ってないし、書籍もほぼ皆無と言ってよい。考えてみれば不思議である。世界一のカメラ大国日本になぜ写真の教科書がないのか。カメラの操作の、つまり技術書は数多くあるのだが、撮れた写真についての良し悪しというか講評というか評価というかそういうものがよくわからない。そんなものは無いと言えば無いわけだが、現実には大したこと無い写真と引き込まれるような写真の両方が存在するのである。

以上のことを踏まえると、私が私の感覚を最大限に生かして写真を選んでいくしかない。迷子のまま突き進むよりほかないのである。そしてそれはつらく険しい。しかし最近朧げながら写真が読めるようになった気がする。それは丁度英語や中国語といった外国語を覚えることと似通っているのではないか。流暢に話せるところまでは程遠いが大意くらいはわかるようになった。写真の文法があるとするなら、それを幅広く試したり覚えたりしたいと思うが自分の撮った写真の中にそれを見つける作業は妙な気分である。自分を精神分析したり解剖するようなものなのかもしれない。私は墓を掘り返そうとしているのじゃないかと思わなくもないけれどなんだか気持ち悪いから今日はこの辺でやめておく。
川辺の草

タイヤ交換

今日もよく晴れた。風強し。車のタイヤ交換をした。もう暖かくなったし雪は降らないだろう。春を喜ぶよりも次の冬を憂えた自分に嫌気が差した。先取りしすぎだろう。
畑のバルブ

高架の上から見下ろせば

青空に幾つも浮かんだ宇宙船のような雲を見上げると、あちら側から何かが押し寄せてくるような迫力を覚えて圧倒された。あの雲はなぜあんな形になったのか、きっと誰の役にも立ちはしないが気になる。そして今日の雲はもう2度と見られない1回性のものであり、カテゴリーやジャンルといった枠組みが訳知り顔で説明し定義しえない現象である。分類による理解など本当はないのではないか・・もうこんな堅いことを言うのも考えるのもやめよう、つまらないし意味がないから。妙な雰囲気のクールで不思議な雲が青空に浮かんでいるのを見て感動した・・それだけだ。

山陰道の上り坂をぐんぐん登れば高架上からの見晴らしが素晴らしい。しばらく行くと高架下に小高い丘があるのが見てとれて畑と軽トラと墓があるのが見えた。それが妙に気になって脇見運転をしてしまった。きっと時間の流れが遅く思えたからだ。高架上では車がまあまあなスピードで流れていたが、高架下の丘の上では数十年労働をし、食べて腹を満たし、やがて死んでいくという時間が見えたのだ。光の具合で墓石がキラリと輝き、こちらの時間感覚を挑発しているようだった、お前もいずれはこちらへ来るのだよ、運が悪ければ今日明日にでも・・って。
私は視線を戻し、前方の緩やかにカーブする道路を車を進めせながら思う。泣こうが喚こうが生きていくことは幹線道路を忙しく走り続けることに他ならないのではないか・・と。
白い倉庫

墓石わらう

少し肌寒かったがよく晴れた。道路脇にはすでに気の早いツクシが生えていた。キンモクセイの木は大量に白い花をその枝につけていた。自然に、地面にマグマのようなエネルギーが蓄積されてその一部が表面化していくのがこの季節であり、梅雨時期までそれは続く。冬に一度枯れてからの開花だから余計にその生命力が目立つ。地面や枯れ木のどこにそんなエネルギーがあったのかと不思議に思う。

燦々と降り注ぐ陽光を背にして山間の集落を歩き進むと、子供が自転車に乗って通り過ぎていったり大空を舞う鳥が鳴いたりしたが、そんなことよりも年季の入った墓が近づいてきた。いわゆる普通サイズの墓石ではなく高さは1.5倍くらい、幅が2倍くらいあり微妙に傾いて立っていた。それらがずらり並んでいるのは丁度生きている人間が並んでいるようだった。墓石が晴天の下で天高く笑っているように見えて私は胸がすーっとした。必要以上に責任を感じたり、罪悪感を覚えたりすることなく「がんばれ」と背中を叩かれる、と同時に許されたようにも思えたのだった。
牛舎の牛

風に舞うのは

今日は1日雲に覆われ、午前中は小雨が降ったり止んだりしていた。こんな雨に濡れてしっとりとした日は花粉など飛ばないと思うのだが、えらく目が痒く鼻水も止まらなくなったりする。確かに風は強いが北西の風である。花粉は中国山脈から、つまり南の方角から飛散し大気中を舞ってくるものと予想されるからおかしいそんなはずはと思うがそんなものでもないらしい。中国大陸から黄砂が押し寄せて来るくらいだからスギ花粉も相当の距離飛ぶだろう。自然環境のことは複雑すぎてよくわからないことが多い。

自然環境は外部であり、政治・経済・社会・教育といったものはインドアなものである。自然を押さえつけるのが西洋、交わって一体となるのが東洋だというふうに聞いてきたが現在はそんな単純な線引きはできなくなってきつつあるのではないか。もし仮にアジアの自然観が広く普及すれば環境問題や心の問題は大幅に改善されると思うがそうならないのは何故だろう。

スギ花粉によるアレルギーに悩まされている私は、外部に対して敵対心や恐怖を身体レベルで必要以上に持ち合わせているのじゃないかと思うより先にくしゃみを連発した。
反射材

釣具屋へ行くも

釣具屋へ行く。小さな町の小さな店ではなく大きなチェーン店。2、3時間は居られるくらいだ。例えばウキ、ハリ、道糸、ルアー、竿、リール、クーラーボックスが所狭しと並べられていて眩暈を覚えるほどである。特にウキやルアーは色や形が様々で見ていて飽きないし、ワクワクしてくる。子供がおもちゃ箱を覗いている感覚に近いだろうか。今日はリールを買いに行ったのだが結局買わなかった。真鯛や平政を狙いに磯へ行こうと予定しているけれど、まだ時期尚早でありもう少し悩もうと思ったから。釣りに詳しい人ならわかると思うが、ルアーと餌釣りではリールの選択は異なり、どちらがよいのか決めかねたのである。

さらにそこから書店へ行く。久しぶりの本格的な大きな本屋であり、喫茶店まで併設されている。山陰ではおそらく最大規模だろう。ネットでも本は買えるがやはり直接手に取るのが一番だ。本の装丁や厚みや大きさ、つまり内容ではなく物としての本にどこか誘引力がある。そうして不本意買いではなく納得買いができる。考えてみれば、物と内容(情報)というのはいつもセットだった。その関係が崩れたのはつい最近のことである。それが書籍やCDである内はかまわない(私も電子書籍を出しているし)が、人が物と情報に分けられた時いったい何が起こるのだろうと憂慮する。そしてまた、昔に引き返すことはできないこともわかっている。

大多数の人が情報としては取るに足らないが、物としては平等だ。自尊心というのはそういうことを言ったのじゃないだろうか。つまり東大出だろうと大企業の社員だろうと何ということはなかった、物としては。肩書きや学歴や金に実体はないから。反対に一寸の虫にも五分の魂とも言う。どうしても情報に浮かされ足元を掬われてしまう。それには失敗や後悔が有効なのではないだろうか。
紫陽花の芽