生きている間は死んでないんだ

このウェブサイトが一時中断される以前の記事が、一部見つかったので付け足しておいた。

結構面倒な作業だったが、自分が書いた文章を読み直すことで励まされた。支離滅裂で独善的で意味不明なところもあるが、気合とか熱が伝わってくる(自分しかわからないものかもしれないが)。書くのは辛いが財産なのかもしれないと思う(SEO的にも)。
大袈裟にいえば、文を書く重大な意味や意義を過去の私に教わった。過去から現在に向かって伝達されるエネルギー、ちょうど絵画や彫刻や古い建物に感じる何かのような。
また、詩の有無も考えさせられた。一年も経たないうちに詩やそれの雰囲気がなくなった。大いなるものに呼びかけるような姿勢というか。当然私は学者でもなければ経済人や政治家でもないのだから、好きに書いてよい。わかってはいるが知らず知らずブレーキ(自主規制)が働いてしまう。難しいものだ。
最後に、読み返してグッときた少林寺拳法創始者宗道臣のお言葉を再度紹介させてもらう。

『生きている間は死んでいないんだ、で負けたんでもない。死ぬまでは、生きている間は負けたんじゃないんだから。だから、とにかく一所懸命生きていこう。』
林と空

無軌道ー両者をつなぐものー

<であるもの>と<でないもの>でこの世はできている。
0か1かのデジタルであるということだが、両者は決して交わらないわけではない。そう希望する。でなかったら何をやるにも意味が無い。
裏を返せば、円満ということはなくいつも欠落や喪失を抱えて生きているわけだ。それは大人なことである。子供に喪失感はない、私はなかった。
1日に出会うものや行動様式がパターン化し繰り返し作業が増えていく。同じ軌道を何度も何度も往来している。それを安定や幸福という人もいる。が、困ったことに固まってしまう、<であるもの>と<でないもの>が。
結果的にいえば両方無くなる。<でないもの>はまず見えない、<であるもの>には一向に気付けない。例えば会社や学校をサボったとき、平日の街や家の近所の雰囲気が新鮮に感じられることはなかっただろうか。<でないもの>に実は支えられていた、連結していた、というよりも”あったのだ”という発見。そして翌日、会社や学校の決まりきった1日が異様に見えてくる。<でないもの>から<であるもの>を見つめ、その小ささや取るに足らなさを知り、可愛い生き物(人)たちに親近感を覚えたりホッとしたりする。

昨日は暑かった、そして今日は雪が降っている。寒くて嫌だけどホッとしている。
電気メーター

日雇い派遣労働者の罪悪感と夢

いじめや差別をしなければ生きていけないという罪悪感が重くのしかかってきたのは、日雇い派遣労働者を経験してからのことだった。あの頃は人材派遣会社が飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長しており、派遣登録をしに行った先はピカピカした高層ビルの一室だったこともある。その反面、派遣先は製本工場だったり建物の解体現場だったりで雲泥の差だった(今や懐かしい)。給料は安く、保証もない。気楽な面もあった。それでもなぜあんな割に合わないことをしたのだろうと考える。恐怖や不安があった、不信感も強かった。自信もなかった、求人票を見ても何もできそうになかった。私に合う仕事が都合よくあるはずなく、かといって求人に私を適合させることもできなかった。必然性がなかったのだ。これだ!という。どこか馬鹿らしく感じてしまう。その最たる例を挙げれば、オンラインゲームのユーザー間のやり取りをチェックする仕事。猥褻な画像を公開したりということがあるのでそれを見張るのである。あまり良い例ではなかったかもしれないが、工場でも引越しでも建設現場でもレジ打ちでも事務作業でも人がモノやロボットのように、つまり機能として扱われてしまうことが嫌だった。人間らしいものといえば溜息や愚痴だけだった。大企業があって中小企業があってさらにその下請けがある、さらにその中に上司や部下がおり、それらトップダウンの構造は不動であり、またそれを脅かすものは速やかに抹殺されるような恐い雰囲気。日本版アパルトヘイトかと思った。肌の色は同じだが、別の意味で色分けされており、そのきっかけは様々だ。そんなわけでいまの20代のフリーターやニートはそれ以上だと思うから気の毒である。私が超お金持だったら何かやりようがあったかもしれない(絵に描いた餅である)。
私はお金がないことよりも意味がないことの方が辛い。もし仮に社会構造に依拠しないアクションや生き方が可能であれば罪悪感は覚えなくてよい。それは反動的になることではなく自分に還ることである。
農村

自立

自立することは父親殺しなのか?
私は人一倍自立心が強かった。学生の時分ドストエフスキーの小説を好んで読んでいた(父親殺しの内容)。最近はフロイトの本を読み始めている。原発デモに行ったのは父親探しだった気がすると以前のブログに書いた(今はもう無いけど)。私の判断や決定はどこからくるのか。あなたの決定はどこからきたのか。それは常識であり社会通念であり政府与党なのかもしれない。あるいはそれらに対する反発かもしれない。そしてそれは父とのコミュニケーションに他ならない。

父親は鬱陶しいが反面居て欲しい。私は父が嫌いなのではなく、今ある父が不憫でならなかったのではないかと自問する。信用が失墜してもなお戦い続ける父が目に痛い。もっと弱小でいいと思う。どうせ父は父なのだから。
花壇

目覚めのラーメン

お金を稼ぐこと。
どうすればよいのかわからない。いままで勤めて給料を貰うという発想しかなかったから。ビジネスを始めるといっても何から手をつければよいのか。ウェブで検索してみても胡散臭い情報ばかりだ。そんなもの公表するとは考えにくいし。
電子書籍は販売しているが売れない。まず見てもらえていないだろうから、広告から始めなければならないだろう。膨大な情報の中に埋もれてしまっている。
幾分イライラしながらお金ってなんだろうと考える。答えは見つからぬまま、日が暮れる。
簡素な建物の一角に居を構えた昔からのラーメン屋に入る。ここの牛骨ラーメンには心酔している、美味い。代が変わってさらに美味くなった。ごちそうさまって500円を払って店を出る。
2月にしては異様に暖かく、風の強い夜。お金の心配をするのは異常気象のせいなのかもと疑ってみる。
砂浜へのトンネル

旧友のような

大山(だいせん)が美しい。
鳥取県の西部に位置する大山という山が雪を冠しており、THE山という感じでいいなあと素直に思った。絵に描かれ、写真に撮られ、映像に流され尽くしている山であり、べつに目新しさはない。ちょうど富士山あるいは桜が画として飽きるほどに、吐いて捨てるほどに出回っているのと同じである。しかし、実際に目の当たりにすればやはりグッとくるものがある。何も期待していなかったのもよかった。坂道を上りきって下りようとするかしたかのところで雪化粧をした大山が視界のど真ん中に飛び込んできた。私は意外なところで旧友に出会ったような反応をした。
風景の強さはこのようなものではないか。意表を突くように立ち現れる、何度も何度も見てきたはずだが、突如新しく見える。実際に新しいのだと思う。物体としては同じ山だが、今までとは異なるのである。なかなか説明し難いがわかる人にはわかるだろう。<ゲシュタルト崩壊>という現象に当て嵌まるのかもしれない。興味があれば調べてみて下さい。
名状し難い感動をどうにか留めておきたくていろいろしてみたものの未だ誰も成功していない。それは一生を賭ける、もしくは棒に振る仕事になり得るのかもしれない。
サイドミラー

under the highway

やめたい。
そう思ったことありませんか?
あれもこれもと頭がパンクしそうになってということもあるし、今までやってきたことが誤りのように感じられてということもある。単に私は欲張りなのかもしれない。また、何かを掴み取れば何かを失った気がして悔やまれるという無間地獄に堪えられない。

私は近くの農道をブラブラとしていた。この季節はほとんど畑に何も植えられていない、白菜と大根をたまに見かけるくらいだ。空は暗く殺風景だ。遠くには高速道路の橋が架かっており、車が往来しているのが見える。つい最近まで私は高速を走る運転手みたいなものだったのだ。今はそれを遠くから眺めており、羨ましくもある。
小さな囲い

ロボットから見るニンゲンは

SEOってなんだ。
検索エンジン最適化、である。ググられやすくするということである。昔は被リンク数が重要だったらしいが、今はそうではなくコンテンツ、つまりテキストが最重要であるようだ。たとえばタイトルのつけ方やキーワードの盛り込み方、文章量、オリジナリティといったものだが、それをどのように判別しているのかは謎である。ロボットにできるだろうか、人間でも難しいと思うが。今後ロボット、人工知能に人間が取捨選択される時代が来るのかもしれない。考えてみれば人間の方も融通が利かなくなった。
誤解を恐れず言えば、ルールやマニュアルを破ることこそ人間だと言えはしないか。法を破れば犯罪、ルールを破れば違反、マニュアルを破れば失敗であるが、そうさせるものはいったい何だ?

・・自然、である。

私が子供だった頃、大人たちは『若者や都会の連中は自然がわかっとらん』という意味のことをまあまあよく言っていた記憶がある。正しかったと思う。
青い物体

鮮明にはなったが

辻褄が合いすぎる。正確無比に歯車が動き、逸脱することは決してない。そんなふうに思えてしまって気が滅入る。枠組みや堅苦しさから外れていくと酷いペナルティを受けるだろうという恐怖もある。

怒っているから怒っているんだ、喜んでいるから喜んでいるんだ、という言い方ができるとすれば私は神様に押し潰されそうになっているということになるだろう。神様は眉一つ動かさずソロバンを弾いており、あらゆるものを善悪や美醜といった2つのものに分類仕分けしている。

神様は優しくなくなった。
優しさはルーズである。
風車

オン弱肉強食

以前のウェブサイトで「父親的愛情喪失時代」というタイトルで文を書いたことがあった(もう消してしまったけれど)。それは言い換えれば弱肉強食が横行する時代ということ。いつからそうなってしまったのだろう。

東西冷戦時代は二者拮抗の時代、正しさは2つあった。ちょうど企業と労働組合の関係に等しい。実際にはどちらが正しいということよりも、それによってパワーバランスが取れていたことが幸運だった。つまり結果的に睨みを効かせつつも補完しあう2者によって初めて成立する”緊張の中の平和”を享受できた。しかしソ連は崩壊し冷戦は終結、一極集中の時代へ、という矢先9.11が起こる。それによってさらに拍車がかかる。従属しないものは締め上げられ、意味のないものはとことん意味がなく切り捨てられる。労働問題(格差、貧困、ブラック企業)や3.11にそれが表れた。僕が原発デモに出かけたり、非正規雇用で構わないと感じてしまうのはそのためだった。人が人を食って生きているようで、あからさまで、救いなく・・。以前はそんな風に感じたことはなかった。自称『元いじめられっ子』も増えた気がする。それは意識が変わったのか現実が変わったのか、おそらく両方だ。いずれにせよ、いじめや虐待、差別を強く感じてしまうとかなり苦しい、自殺したほうがいいのではと思ってしまう。やる側、やられる側というふうに単純化されてしまうことが一番の問題だ。

インドを旅していた頃はよかったと思う。ヴァラナシという街でガンガーの岸で火葬が行われており、そのゆったりとした時間に身をまかせられる、と同時に街中では密度の濃い人間ワールドが繰り広げられていることのスゴさ。
今、差別(カースト)に対する答えは火葬だったのだ、と思う。
差別の反対は弔いである。
koya