影と実体

なにがわかったのか?
以前に比べてわかったことが増えただろうか?
結局それ自身になってみなければわからないではないか。
ということを寝起きにぼんやりと思った。
”理解”を誤解したのである。
悲しかった。
ネット空

持てない海

海はみんなのもの、誰のものでもない。
国際的には領海というものがある、しかし流動する海を所有するというのは実感できない。空も然りだ。陸だけが不動のものであり所有感を覚えるのだろう(長期的に見れば陸も流動的だが)。何故こんな当たり前のつまらない理屈を書くのかというと夕方に海に行ってそう思ったから。そして胸がすーっとしたから。誰のものでもないものってもうないのじゃないか。大豪邸や戦闘機や芸術作品よりもスゴいことなのに・・。

海を見てずっと昔のことを思い出す、私が子供だった頃、さらにずっと昔、生まれる前、いやもういつのことかわからないくらい昔。非科学的で、貧しくて、不潔で、暗くて、弱くて、華奢で、泣いてばかりいた頃のこと。私はそれが嫌でしょうがなく、時にはバカにして唾を吐いたこともあった。でも今は思わない。よかったと思うのである。”わたし”は”わたしたち”であり、”わたしたち”は”わたし”だったあの頃が。科学的ではなかったが、魔術的だった。不潔だったが体温があった。暗かったが歴史があった。泣いてばかりいたが”関係”があった。誰もが同じひとつの海を所有していた。つまり海はみんなのものだったし誰のものでもなかった。
今、太古の記憶を留めた海の中に物語の原型を見た気がする。
海の断崖

42.195

フルマラソン、42.195キロを完走したらどういう気分だろう。
ウェブで検索すると結構な頻度で全国的にマラソン大会が開催されているみたいだ。どういう人がフルを走るのか知らないが日常的に走り込んだ猛者だけではないか。さらに調べると初心者でも半年くらい練習をすればなんとか完走まではできるようなことが載っていたが信じられない。大体どの大会でも6時間以内に完走しなければ失格である。ということは1時間に7キロ、8分で1キロ走らなければならない計算だ。時速7キロ・・・か。
まずはハーフ、20キロ走れるようになりたいなあ。いや、大して練習もせずたまに走るぐらいなのだけど、全然軽やかでなくボテボテの動きだし、得意じゃないが。始めてみようかなあ、やっぱりやめようかなあと思っているところです。
駐車スペース

虫はどういう気持ちで鳴いているのか?

ウェブで何ができるだろうって考える。
ホームページやブログは言わずもがな、電子書籍やメルマガ、ツイッターやフェイスブックやインスタグラムなどSNS、あとは動画くらいか。こうして書いてみると案外たいしたことない。全てに通じることは書くということ、つまりテキストだ。どうしてもテキストによって検索するから、それは免れない。つまらない作業だ。ウェブで何ができるかというと別に何もできはしない。世界の片隅でほとんど聞こえないような小さな音を発するくらいのものだ。
カゴ台車

線と差別

最近、幾何学的配置が気になる。こんな風に見えたことは今までなかった。世の中は”線”でできている。線とは一方と他方を分かつ境界である。境界が明瞭になればなるほど線の力強さは増し、勢いづく。その逆も然りである。
差別ではないか、少なくともその象徴をみているのではないか。線の強弱は差別の強弱だ。線も差別も物体ではない。それは構造や関係や相対的な何かである。それは分け隔てる仕組みである。アイディアである。
線の強さこそ近代の強さだった。それは人と人を分け隔てもしたし、人ひとりも分けた、自意識と無意識とに。昔はもっと貧弱な線だった。曖昧で滲み合っており、許しあっていた。弱くて貧しくてダサくて非科学的だったけど、幾何学的な冷たさとは無縁だった。
鳴り石の川

生活が通り過ぎていく

生活、生活、生活。
轟音をあげて通り過ぎていくトラック。誰だって自分の生活のために働いている。決して他人のためなんかじゃない。当然だ。

なぜか「私は友達が欲しい」というフレーズが頭に浮かんだ。生活のために私たちはバラバラにならざるを得ない。そうならないための装置や勢力ももうない。残念で悲しいが、スゴロクのように進行していく簡潔さ、明瞭さが新鮮でもある。

うーん・・・一人だけ就職活動をしなかった学生の頃の私は間違っていたのだろうか?
恐かったのか?
否、自分を失わず生きていきたかったのだ。

街の騒音は思った以上に大きかったけど。
yukinodo

それでも外に出よう

テレビニュースや新聞を見れば激流のような毎日だ。近い将来、戦争になるのじゃないかという危惧の声が聞かれるのも特別素っ頓狂だとは思わない。何か妙な不安につきまとわれている気はする。よほどの鈍感でなければ感じているはずだ。しかしそれをうまく言い表す言葉を思いつけない。経済破綻か、全体主義か、集団自殺か、大量殺戮か、無縁社会か。安保や原発、テロや環境問題という大問題の影に隠れた目立たぬ些細なことに、時代の本質が埋め込まれているのかもしれぬ。

ウーウーと覆面パトカーがサイレンを鳴らして結構なスピードで走り去っていった。家から出てそれを眺めている老人がいた。サイレンが聞こえなくなると家に戻っていった。何事もなかったかのように元の状態に戻る。川が流れ、雪が河川敷に所々に残っている。川に架かった歩道橋をランドセルを背負った小学生が本を読みながらトボトボと渡っている。遠くに白と青の山が見える。

外を歩けば何も起こらなさに嫌気が差す。何も変わらない。不特定多数の1日として今日はカウントされるだろう。私は頭を掻く。ため息をつく。顔を上げる。白と青の山が見える。歩道橋には誰もいない。
入口の看板

変わらない雪景色

雪が降った。
全国的に雪だったようだが、鳥取では遅い雪だった。大体いつもはクリスマスや年末に降るから。
雪によって白を基調にした風景が久しぶりで嬉しくもあるが、最近の国内外での出来事や近い将来のことが頭をよぎる。昨年2015は安保法案が目玉だった、その前は原発だった、さらにその前は格差や労働問題だった。他にも気がかりになることはある、年金や自殺やTPPやテロや環境問題など。解決には程遠く、他人事でもない。荒れに荒れた状況が続いており止む兆しはあるのかないのか。

窓外を見やると、大昔の人も見たであろう雪景色とさほど変わらないものを目にしているのが不思議だ。何が起ころうとあり続けている自然がスゴイ。私個人がどうにもできない事柄を気に病んでいても仕方がないと思った。なんとなく気持ちの良い人、接することで得をしたような気にさせるような、そんな人が増えることで世の中は変わっていくのかもしれない。
雪道

空白の検索ワード

知らないことを検索することはできない。
グーグルやヤフーの検索窓にカーソルを合わせたもののキーボードを叩くことができないことがたまにある。それなら端末をしまえばいいじゃないかと言われればそれまでだが、知りたいという気分だけは確かにあるのであり、かといって検索ワードとしては思いつけない。パソコンの前で、あるいはスマホを片手に固まっている私。寂しさや孤独ってこのことではないかと思うと同時に、コンピュータと人間の奇妙な交差または交差しなさが面白くもあるし残念でもある。百科事典のように使うには申し分ないのだけれど。
砂の畑(冬)

ウェブサイト再開

12月までウェブサイトを運営していたがハッキングされたため、サーバー上のディレクトリごと消去し辞めてしまった。バックアップもとっていなかった。まさか自分にこんなことが起こるとは、と思った。まだウェブサイトを開設してから半年も経っていなかったが、こんなことをして何になるのだろうと思いながら運営していた。アクセス数もゼロに等しい。ちょうど辞めるのにいいタイミングだと感じたのだ。

僕は電子書籍の制作の方に夢中になっていた、今でもそう。当然ほとんど売れないが、どのような人が読んでくれているのだろうと想像もする。やはり自分の窓口としてのウェブサイトは無いよりはあった方が良いと思い直し、再開することにする。
竹