犬はきっと知っている

犬が地面にべったり身体をくっつけて目を瞑っている。ひんやりして気持ち良いのだろう。幸せは人も犬もそんなに変わらないのかもしれない。幸せは否応なく外見に出る。
私も床にうつ伏せにべったりしてみる。絨毯は暑かったが不思議と落ち着く。重力の関係だろうか。理由はよくわからない(わかる人教えてください)。考えてみれば足の裏だけでこの身体を支えていると同時にその面積だけが接点なのだ。飛ぶ鳥に孤高を覚えるのは地面との接触を断っているからだ。家の中では地面(床)との接触が多い。学校や会社ではほとんどない。リラックスや緊張と地面との接触には因果関係がありそうに思うがどうだろう。
狩猟や農業、そして工業、果ては情報産業といった変遷は地面からの遊離の度合いでもある。たしかに第一次産業が見直されている向きもあるがいいことだとは思いつつも怪しいものだとも思う。合理主義者が非合理を受け入れることと同様に難しいと思うのだ。今までは逆だった、非合理が合理主義に蹂躙され駆逐されてきた。結果スッキリとしたような、でも股の間がスースーしすぎるような妙な感じではある。
私たちは何に付き合わされているのだろう。弱いものいじめや弱肉強食、いやそれ以上の目を覆いたくなるような事柄は歴史を紐解けばいくらでも見つけられるし身近にもある。いつだって今だって。特別に現代だからこそ、ではないのである(もちろんあまり見たくはないが)。
水とH2Oは同じであって同じでなはない、というような変わった話をするつもりはない。だって水は水だ、空は空だ、地面は地面だ、大昔とそんなに大差ないだろう。それは大いに利用すべきもの。
が、やっぱ違うよな、と思い直す。
少なくとも、、ごろりと寝転んだ犬の幸福をかき乱したくはない。
犬はきっと知っている。
私は地面に手を当ててみる、医者が触診するみたいに。
大地の鼓動が聞こえてきたと言いたいところだがなにも聞こえはしない。
私がほんの何十年か前に生まれていれば聞こえただろうな。
それを迷信に打ち勝ったと思うのか、接触を失ってしまったと思うのかは意見の割れるところであるが。